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工学部休みなし

先週無事に卒業論文を提出した。卒業論文については一段落したが、進学して今の研究室に残るので研究室は3月中もずっと研究室に行かなければならない。

休みがないことにうんざりとしてしまう。大学を出て社会に出れば休みのない日々を送ることになるだろうが、なぜ工学部の学生は社会に出る前からすでに休みがなく朝から晩まで研究室にいる日々を送らねばならないのだろうか。実に理不尽なことである。

工学部ではない学部の人は幸せだ。工学部に比べれば学校に束縛される時間は少ない。実験もなければ宿題もない。学部によっては卒業論文もない。学業に縛られずにアルバイト、クラブ活動、旅行などができる。

一方、工学部の学生は悲惨だ。毎日のように実験をして結果を出さねばならない。休みは社会人と同じで盆休みと正月だけだ。まとまった休みなどとれず、日曜以外に休みをとろうとするにはたとえ1日だけであっても先生の顔色をうかがって恐る恐る申し出なければならない。給料をもらっているわけではないのに社会人と同じ水準勤めが課される。

私のクラブにいた経済学部の先輩は4回生のとき週に2日しか学校に行かなかったという。卒業論文は必修ではなかったという。工学部の私は週に5日、6日は研究室に行かなければならないというのだから、よその学部は随分と気楽なものだ。

工学部生、大学院生には休みがない。実に理不尽なことだ。


飲み物を口にしながら人の話を聞く若者

最近の若い人は講演を聞いたり授業を聞いたりしている最中でも気兼ねなく飲み物を口にするように思う。年配の方から最近の学生が授業中に飲み物を口にすることは話している人に対して失礼だと思うという声を聞いたことがあるが,若い人は大勢の人の中で誰かの話を聞く際にペットボトル,紙パックを出したままでいたり,それを口にしたりすることに抵抗のない人が多いようだ。

大学の教室を見回すと,5人から10人に1人は必ず机の上に紙パック,ペットボトルの飲み物を置いたまま授業を聞いている。そして授業中でも構わずそれを飲む。私の研究室では,各人が研究の現状を発表をする場において,先生が一緒に聞いているにも関わらず紙パック入りの飲み物を口にする人が何人もいる。よその大学の先生を招いて行われる講演を聞くときでもやはり飲み物を机に置いたまま聞く人がいる。もはや,机の上に飲み物を置いている学生が一人もいない授業など,よほど少人数か厳しい先生の授業以外にはないように思う。

私は,講演あるいは授業の最中に机の上に飲み物を置いたまま座ったりそれを口にしたりする態度は話し手に対して失礼であると思う。病気のような特別な理由がなければ,講義,講演の最中に飲み物を出したりそれを口にするのは我慢するべきだ。いずれ就職活動を始めれば,会社説明会で飲み物をしまったり面接で美辞麗句を並べたりするのであるから,普段の授業,ゼミ,講演のときから態度を改めることはできるはずだ。

講義をしている先生は90分間何も飲まずに立ちながら話しているのに,それを座って聞いている学生が10分おきに飲み物を口にしている姿は非常に情けない。就職活動の場,あるいは恋人の前では猫をかぶるのは卑怯な態度だ。授業の最中に机の上に飲み物を置いたまま座ったりそれを口にしたりする人は,話し手がどう感じるのかを考えると良いだろう。


飲食店のばからしい固執

先日ラーメン屋に入って定食を頼んだ際,店側の対応にあきれてしまった。マニュアルに定めた通りのことしかせずに全く融通をきかせない店の態度が非常にばからしく感じられあきれてしまった。

そのラーメン店では,ラーメンとご飯のセットを頼むとご飯を普通の白いご飯か高菜を混ぜたご飯のいずれかを選べるようになっている。しかし,私がラーメンとご飯に豚カツの付いた「とんかつ定食」を頼んでご飯を高菜の入ったご飯にしてもらうよう頼んだところ,「ご飯は選べない」と店の人が言ってきたのだ。

確かにメニューを見てみると,ラーメンとご飯のセットの後ろには括弧付きで「白ご飯,高菜」と書かれていて,ラーメンとご飯に一品が付いた「とんかつ定食」「チキンカツ定食」などにはその記述がなかった。ラーメンとご飯のセットではご飯の種類を選べるが,ラーメンとご飯におかずが一品付いた定食ではその種類を選べないようである。

私は疑問に感じた。ラーメンとご飯のセットと「とんかつ定食」の違いは豚カツが付いているかいないかの違いだけだ。なぜご飯の種類を選べるセットに豚カツを足しただけでご飯の種類を選べなくなるのだろうかと。ラーメンとご飯だけを頼めばいつもご飯を選べるようにしてくれてあるのだから,それに豚カツを加えた「とんかつ定食」を頼んでもご飯を選べるようにしてくれて良いはずだ。私は店の対応を理解できなかったが,定期的に良く寄る店であったので,このことについて追及はしなかった。

メニューに記載したとおりの品物しか出さず,非常に簡単なカスタマイズも受け入れようとしない店の対応にあきれた。融通がきかず,マニュアル通りのことしかしない店の対応にばからしさを感じた。このような思いを抱く人は私の他にもおそらくいることだろう。評論家のマークス寿子さんも著書の中で似たことを書かれている。

ラーメン・ご飯のセットではご飯の種類を選んでもらうが,ラーメン・ご飯・おかずのセットでは客にご飯の種類を選ばせないという,無意味な執着はしないでもらいたい。融通をきかさず高飛車な態度をとり,天下一,品のない店にはならないようにしてもらいたいものだ。


私の飾り方

私は「飾らない男」と自称しているとおり、今時の洒落た服装あるいは髪型に興味がないのでそのような装いをしていない。着ている服は登山・アウトドア用の服か買い物好きな父が買ってきた服でありいつも数種類の同じものを着ている。髪型はブログの右の上にあるイラストと同じような刈り上げの短髪で板前のような髪型である。

ただ、まったく身なりを気にしていないわけではない。ファッション雑誌に出てくるような最近のいわゆる「イケメン」と言われる男の人のような洒落た格好はできないが、清潔さを保った格好をするように気をつけている。“飾らない”男と称しているが、全く飾らないわけではなく、私なりに飾っている部分がある。

私は清潔感を保つよう次のことに取り組んで自分を“飾って”いる。

  • 髭を毎日剃る
  • 寝癖を直す
  • 眼鏡のレンズを拭く
  • 爪を短くする
  • 耳垢を掃除する
  • ハンカチと肌着を毎日替える
  • ティッシュを持ち歩く
  • カットのみで千円のような安い床屋では髪を切らない

などのことだ。

ファッションに気をつかっていそうな人でも意外と服装と髪型以外のことに頓着のないことがある。例えばパーマをかけた髪型をしていても指の爪が伸びたままであったり、眼鏡のレンズが汚れていたりすることだ。あるいは洒落た服を着ていても鼻をかむためのティッシュを持たずに鼻をすすったり、髭を剃らずに無精ひげをはやしていたりすることだ。格好の良い人でも爪や髭が伸びっぱなしであるとどこか違和感を覚える。

私は流行の洒落た服を着こなしたり美容院で整えられた長髪の髪型にしたりする「おしゃれ」の仕方はできない。そのような洒落た格好で女の子への受けが良いようなルックスの男の子に対して私のような野暮ったい格好の者は外見で太刀打ちすることはできない。ただ、私は爪の長さ、眼鏡のレンズ、髭といった細かい部分に対して気をくばり自分に磨きをかけられるよう努めている。自分を見る者の視覚にうったえる華美な飾りはできないが、細かく見られればつやがあり爽やかな印象を持ってもらえる装いを心がけている。


五百円ばあさん 再び

今日河原町に行くときにまた“五百円ばあさん”と会った。前回と50メートルと(たが)わないほぼ同じ場所で見かけた。今日は5時前で日が沈む前の明るい時にそのばあさんを見かけたので5メートルぐらい手前からすぐに存在に気づいた。前を通るときに「すみません」と声を掛けられたが今度は相手にせずに通り過ぎた。

500円貸してくれと言われればワンコインなので払ってしまう人がいるかもしれない。一人からもらう額が500円ならばそれほど高額ではないように思えるが、毎週土日町へ出て1日2人から500円を巻き上げれば1か月で8,000円にもなる。まさにちりも積もれば山になるという言葉のとおりだ。

良かれ悪しかれそのばあさんを見かけたのは良い思い出になった。このような経験は田畑と木材置き場とダンプしかないような街にいたら経験できなかっただろう。この人は「上京(かみぎょう)の寸借ばあさん」として京都にいた時の一つの変わった思い出に残るに違いない。また路上でお金を貸してしまったらその金は返ってこないだろうということがよくわかった。


五百円ばあさん

今日河原町へ行く途中で学生ぐらいの若い男の子二人連れに七、八十歳ぐらいのおばあさんが泣き声をあげながら何かを話しているの光景を見かけた。片方の男の子がおばあさんに「500円ですか」と聞き返していたのが耳に入った瞬間、以前私に「500円貸してください」と路上で言ってきたおばあさんを思い出した。このばあさんはまさにそのばあさんであったのだ。おそらくその男の子にも同じことを言っていたのだろうが、そのおばあさんが本当にお金に困っていたかどうかはまゆつば物である。

そのばあさんから声をかけられたのは昨年の秋の涼しいころだった。日が沈んで暗くなったときに東本願寺近くの路上を歩いているといきなり後ろから「おにいさん」と声をかけられた。振り返るとそのおばあさんがいて
「500円貸してください」
と言われた。私が返事をすると
「お金がなくなって帰れなくなった」
と言ったのだ。最初はこのおばあさんが本当に困っているのかと思った。しかし泣き声を上げなら死にそうな様子で
「寒くなって暗くなって困った」
「もし帰れなかったらどうしよう」
などと言ってやたらと深刻そうな状況へ事が運ばれるのと、どこへ帰ろうとしているのかはっきりとしないことから、私は半信半疑であった。

このおばあさんが本当に困って泣いているのか、それとも演技して泣いているのかよくわからなかった。段々とこの人を相手にするのが面倒になってきて、「500円でこの人から逃れられるなら払ってその場を去っても良いか」と一瞬思ってしまった。しかし500円あれば1回の外食の代金ぐらいになるのでお金を渡すのははばかられた。収入のない私からお金を渡してしまうのが悔しかった上に、近くに七条警察署がありいざとなればそこで小銭を借りられるだろうと思ったので、結局私は金を払わずにその場を去った。

今振り返ってみるとあの時金を払わずにその場を去って良かったと思っている。また、おばあさんの「500円貸してください」という声掛けに対してまともに相手にしてしまったことを後悔している。このおばあさんの方が私よりもはるかに人生経験が長い。おそらくこのおばあさんはその道のプロであり、まだ人生経験の浅い私など簡単に言いくるめてしまうだろう。そうなれば私が何を言ってもまともに太刀打ちできるものではない。悔しいが、こういった状況では「逃げるが勝ち」であり、金を貸してほしいと言われたときにその人を相手にしないのが一番の得策といえるだろう。

今日声を掛けられていた男の子は二人とも真面目でおとなしそうな男の子であった。おそらくそのようなやさしそうな人ばかりが声を掛けられるのではないかと思う。私はおばあさんに応対していなかった方の男の子にそっと「あのおばあさんはいつもああやってお金をとろうとするから相手にしないほうがいいですよ」と伝えてその場から去った。その後それらの男の子がどうなったかはわからない。非常に気になるところである。


ポストからあふれる新聞

先月の終わりから今月初めまでの10日間ほど帰省していた。京都のアパートに戻って驚いたことは私の郵便受けが9日分の新聞であふれていたことだ。郵便受けの中には2、3日分の新聞が入っていてはみ出ていた。さらにはみ出ていたその新聞の上に4、5日分の新聞が積み重ねられていた。帰省する前に新聞の配達をとめてもらうように販売店へ連絡をしたのだがとまっていなかった。郵便受けが新聞であふれている光景に唖然とした。

帰省する前に新聞の配達をとめてもらうように販売店へ連絡をしたのだがとまっていなかった。一人暮らしなのでアパートを留守にする際は新聞配達をとめてもらわなければならない。私のアパートは1人者ばかりなので、長期留守にする際に新聞を止めておらず郵便受けが新聞などであふれている光景をたまに見かける。同様の出来事は前にいたアパートでもあった。

新聞が郵便受けからあふれているのを見るたびに私は疑問に思うことがある。それは新聞配達の人が新聞であふれているポストを見て、その家への新聞配達をとめるように判断できないのかということだ。もし私が配達する者であれば、ポストに何日分もの新聞がたまっていた場合、その家から新聞の留守止めの連絡を受けなかったかと疑問に思って確認すると思う。

郵便受けから新聞があふれていて不便に思うことは次のようなことだ。

(1) 郵便受けにある郵便物などが曲がること
(2) 新たに来た郵便物がポストからはみ出る入ること
(3) 部屋を留守にしているのがさらされること

新聞配達の人は郵便受けの中身がどれだけたまっていようと頑張って新聞を押し込んで行くため、郵便受けに入っていた郵便物が皆曲がってしまう。もし誰からか肉筆の手紙が曲がってしまったら非常に気分が悪い。また郵便受けに新聞があふれているときにクレジットカードの明細、インターネットサイトのIDが載った書類など大事なものが届けられると、それらが他の人の目にさらされたり抜き取られてしまうのではないかと不安だ。また新聞がたまることで空き巣狙いにあうかもしれない。非常に不便で不安に思う。

郵便受けがどれだけあふれていても新聞を置いてゆく新聞配達には不安と不満を抱く。今回私の場合は10日分ほどの新聞がたまっていたが、昨年の夏休み中に同じアパートで1か月分近くの新聞がたまっていたポストもあった。それだけ新聞がたまっていても新聞の配達は滞りなく続くのだ。状況がどうであろうともかたくなに新聞を置いて行く姿勢に私は納得が行かない。

ポストから新聞があふれていたら配達を止めたり連絡の有無を確認したりするなど機転を利かしてほしいが、新聞配達の人はそこまで気を配る余裕がないのだろうか。新聞配達が過酷な仕事であるということは容易に想像がつく。新聞配達の人は午前2時に販売店に行き新聞の準備をしてその後配達に行くと聞く。どんなに寒い日でも天気の悪い日でも新聞を届けるのだからさぞ大変なことだろう。ただそれでも「最近あの家のポストがあふれている」といったメモをして販売店に報告するのは非常に困難なことであるとは思わない。ぜひもう少しだけ工夫していただいて気の利いた配達をしていただきたい。


会話のない女の子 その1

最近周囲の女の子から話しかけられることが非常に少なくなった。私が中学生のときと高校1年生のときは黙っていても同じクラスの女の子が話しかけてくれた。ところが高校2年にあがってから現在に至っては特別な用事のない限り女の子が話しかけてくることはなくなった。

中学と高校1年のときはクラスに友好的な女の子がいた。髪を切れば「髪切った?」と声を掛けてくれたり、「眼鏡掛けてないほうがいいよ」「眼鏡掛けている方が似合うよ」などと数人で話題に挙げたりしてくれた。女の子は開放的で互いに話しやすかった。

高校2年、3年では女の子との会話は劇的に減った。女の子から私に話しかけてくることはなく、私が女の子に何かを話しかけたときだけ会話が生じた。女の子が声を掛けてくる際は決まって「今先生何て言った?」「宿題の範囲はここでいいの?」といった事務的で必要最小限の連絡であった。大学に入ってからも学科の女の子とは同様に会話がなかった。

なぜ高校2年になってから女の子から話しかけられなくなってしまったのだろうか。その原因は高校2年から理系に進んだことにより、それまで私に声をかけてくれた女の子たちとは異なる性格の女の人が周囲に増えたためであると私は考える。具体的なデータがあるわけではないが、私の経験からして、理系の女の子の多くに特有の暗さがあるといえる。

続く


相手の心を開くポイント

営業コンサルティングで活躍されている小森康充さんの講演を聞くため12月6日に大阪堺筋本町の産業創造館に行ってきた。この講演では営業の人向けに購買の原則、顧客との信頼関係構築のポイント、相手の心を開く手法、説得する手法などについて話をされた。講演は営業マン向けであったが他の職種の人にも役立つような処世術の内容であった。

小森さんとはご自身のプロフィールにおいて、外資系国際企業で20年以上ビジネスの経験があり常にトップクラスの営業成績を上げ続けたと紹介されている方だ。現在は人材育成のためのコンサルティング、研修などをされている。

中でも面白かったのは、相手の心を開くには相手と接触する回数を増やすのが重要だということだ。客と1週間に1日会って100分話すよりは、5日会って20分ずつ話す方が相手が心を開いてくれるという。相手に1回でどれだけの時間接したかということよりは、相手と会う回数を増やすことの方が重要なようだ。

現実的には営業マンが1週間のうち5日間も特定の客と会うのはできないだろう。だが、相手と会うのが1日だけであったとしても、相手との接触回数を増やすことが重要だという。例えば小森さんは講演で聞き手の心を開くため、聞き手との接触回数を増やすために次のような工夫をしていると著書で紹介している。演壇に立って自己紹介をした後に意図的に「あちらをご覧下さい。今日の講演でお世話になった〇〇さんです。」と言って聞き手の注意を自分以外へ向けさせる。そしてまた自分の話をする。自己紹介をしていた時点では聞き手との接触回数は1回だが、相手の注意を自分からそらせ再び自分に向けさせることで、相手との接触回数は2回になる。

相手との接触回数を増やす工夫が相手の心を開くポイントのようだ。このテクニックは営業の場面に限らずいろいろな場面で使えそうだ。ぜひ実践して行きたい。

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リンク

小森コンサルティングオフィス
小森さんのブログでの紹介記事
紹介記事の写真に私が小さく写っている

小森さんの著書


社会人の気持ちがわかる

最近は余裕がなくなってきた。平日は帰宅するとどっと疲れが出てくる。学生は自分で稼いだ金で食べているわけではないので、社会人から見ればまだまだ半人前だろう。しかし工学部の研究室で学生に求められていることは社会人が会社で求められていることと遜色ないように思う。

会社と同じように研究室でも結果を出すことが求められる。先生に毎週実験結果を報告しなければならないので毎日学校に行き実験をしなければならない。実験結果が少なければ「結果はこれだけか」「実験が遅い」と言われ、良い実験結果が得られなければ「この結果は何か」「なぜこの結果になったのか」と説明を求められる。原因の特定が難しいことであっても説明ができなければ「頭を使え」「考えないでただ実験するだけでは研究の意味がない」と言われる。

頑張って実験をしても良い結果が出ないことはある。そのようなときはとても嫌な気分になる。1か月間ぐらい毎日手間をかけて精製した物質が一瞬のミスで使い物にならなくなったり、測定で理屈に合わないような結果が得られたりすることがある。どんなに手間をかけていようと良い結果が得られなかったら容赦なく「何をしていたのか」と追及を受ける。

学生ではあるがすでに半分は社会人と似たような状況にいる思う。私の場合は求められているものが実験結果であるが、営業マンの場合はこれが売り上げの成績になるのだろう。頑張って実験をしても良い結果が得られず先生に罵られるときは、毎日必死に歩き回ってもノルマが達成できず上司から罵倒される営業マンの姿が想像できる。

社会人と私で違うところと言えばプレッシャーの大きさだろうか。私は実験で金をもらっているわけではないので、実験のことで怒られても何とかなる。しかし金をもらっている社会人は結果の出ないことが相当なプレッシャーになることだろう。それに生活がかかっているのだから。

朝の列車では新聞を読んでいる通勤客を良く見かけるが、夜になると新聞を広げる人が非常に少なくなり、代わりに眠ったりぼけっとしたりしている人が多い。私は以前からこのことを疑問に思っていたが、研究室に入ってからは納得ができた。平日の夜になってどっと疲れを感じるようになってからは、通勤客が帰りの列車内で新聞を読む余裕がないのは無理もないと感じる。

今となっては、「給料は我慢代」という母がそのまた母から聞いたという言葉や、吉田拓郎が歌う「制服」という歌にある「これからきみは日曜日だけを待つんだね」という歌詞(1)がよく理解できる。学生ではあるが社会人の気持ちも徐々にわかるようになってきたように思う。

参照
(1) http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND77404/index.html