こういう体験を話してくれる男の人は、決まってセクキャバに行ったときの話しをとてもうれしそうに語る。「胸を触ったんだ」とか「胸に顔をうずめた」という話をニコニコとしながら語る。
誰かにこのようなお店に連れて行かれることがあれば、それはそれで面白そうであると思う。まじめな家で育てられて来た私がそのようなお店を知れば、良いか悪いかは別として、世界が広がるからだ。しかし、そのようなお店に行ったとしても、心の奥底から楽しむことはできないだろうという思いも私にはある。
このようなお店に行った体験を語ってくれる人は、女の人の体に触ったことがとても楽しかったと話す。しかし私は、お金を払うことによってその場だけ自分のことを相手にしてくれる女の人の体を触って果たして楽しいのだろうかと思う。
このようなお店では、お金を払えば誰でもお客さんとしてサービスを受けられるだろう。たとえ接客係の女性が自分のことを関わりたくない相手であると思っていたとしても、その女性は仕事として相手をするだろう。お客さんがどこの誰であろうと、このようなお店では女の人に平等に相手をしてもらえるのだ。
自分が他の大勢の人と同じように扱われることが私としては嫌なのだ。私は本当に私のことが好きである女の人に相手をしてもらいたいと思う。仕事としてその場だけの相手されるというのではなく。
以前、三島由紀夫の『金閣寺』を読んでいたときに私の気持ちと似た考えがあった。登場人物とは状況が違うが、まさにこの文章が私の気持ちを代わりに表してくれている。
商売女は客を愛して客をとるわけではない。老人でも、○○でも、○○○○でも、美男でも、知らなければ○○でも客にとるだろう。並みの人間なら、こういう平等性に安心して、最初の女を買うだろう。しかし俺にはこの平等性が気に喰わなかった。五体の調った男とこの俺とが、同じ資格で迎えられるということが我慢がならず、それは俺にとっては怖ろしい自己冒涜に思われた。
今となってはここに載せることが適切ではないような言葉があるので一部伏字にしてある。ぜひ『金閣寺』を手にとって第四章の柏木の言葉を見てほしい。
このようなお店のお客さんは、女の人が本心から自分を相手にしてくれいないことを知っていて、それを割り切ってお店に行くことだろうと思う。しかし私にはどうもそのように割り切ってサービスを受けるということに抵抗がある。

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